戻る | last update 2001/05/26 |
猿江地区の歴史(この地域で一番歴史があるのは猿江です)
1000年ぐらい前
この地域は利根川(荒川はその支流だった)入間川(今の隅田川へ流れていた)の三角州として海が入り込んで、入り江と島が点在していた。猿江神社の伝説にあるように源義家奥州戦のときには、この付近が入り江であった事がわかります。
また亀戸、青戸、奥戸、松戸などの戸の付く名の土地は船着場(津)であったそうです。隅田川では江戸,花川戸、今戸。多摩川の登戸の地名は舟が川を上った場所だったのでしょうね。(亀戸の香取神社は665年に藤原の鎌足が亀の島に舟を着けて香取大神を勧誘したそうです。)
徳川家康の江戸幕府開府
徳川家康は1590年に豊臣秀吉によって江戸に移されましたが、その頃の江戸はまだまだ未開の荒れた土地だったそうです。しかし関が原の戦いの年(1600)には、浦安までの運河を作らせました。隅田川から中川(いまの荒川)までを小名木川、中川から利根川(いまの江戸川)までを新川といいます。この小名木川と新川をまとめて、むかしは行徳川ともいいました。この運河はのちに民間にも開放されたのですが、作られて30年ほどは徳川家専用の運河でした。
このときはまだ隅田川より東は上総の国でした。だから両国橋と言ったのです。
この地域が江戸市中になるのは、明暦3年の大火(1657)以後です。市街地化され本所・深川・城東地区は道路に三つ目通り、四つ目通りとあるように碁盤目状に整備されました。これには小名木川、竪川、北十間川などが、東西に通じていた関係もあるのかもしれません。
木材の守り神 藤森稲荷
〜藤森稲荷神社縁起より〜
創立についての明確な記録は無いが,本所横綱町(墨田区)の幕府御材木蔵(貯木場)に祀ってあった神社を,享保19年(1734)御材木蔵とともに猿江(現恩賜公園)に遷宮したとされる。参考資料 嘉永新X年の本所深川絵図(抜粋) 三菱銀行本所支店70周年記念新聞織り込みチラシより抜粋
猿江の神社は昔,藤の木で取り囲まれていたことから,「藤森神社」と名付けられ,人々の厚い信仰を今日に受け継いできた。
現在の社殿は,東京営林署猿江貯木場が潮見に移転したことに伴い,昭和52年春当地に遷宮したものである。
今日も,江戸幕府時代からの木材の守護神として,作業安全と商売繁盛の神として,毎年藤の花の咲く頃祭典が盛大に取り行われている。
明治から大正
関東大震災による壊滅
太平洋戦争による壊滅
戦後の復興(東京オリンピックまで)
現在の姿に向かって
将来のこの地域は?
小名木川は江戸時代の湾岸高速道路?
徳川家康は1590年に豊臣秀吉によって江戸に移されましたが、その頃の江戸はまだまだ未開の荒れた土地だったそうです。しかし関が原の戦いの年(1600)には、上杉家との戦いに宇都宮に全軍が集合していました。そこに石田三成の挙兵により、関が原の戦いが始まるのですが、家康は江戸城に篭城する事も考えて、(仙台の伊達政宗に対する防備もあった模様ですが)付近の塩の産地(葛西、浦安、行徳から船橋にかけての海ぞいは、鎌倉時代からの塩の産地です。)浦安までの運河を作らせました。なぜわざわざ運河を作ったのでしょう?ただただ塩を運ぶだけならば、海を通って行けば良いのですよね。それを運河を掘ったのこそ軍事上の防備の為と言えるのです。もし東京湾(当時は江戸湾)に、鉄甲船や毛利家配下の瀬戸内海の水軍がやってこられれば、海上の輸送は出来なくなってしまいます。そのとき運河であれば、補給路として使えるのですからね。
隅田川から中川(いまの荒川)までを小名木川、中川から利根川(いまの江戸川)までを新川といいます。この小名木川と新川をまとめて、むかしは行徳川ともいいました。この運河はのちに民間にも開放されたのですが、作られて30年ほどは徳川家専用の運河でした。それほど塩は戦に重要な食料だったのです。武田信玄と上杉謙信の敵に塩を送る話は有名ですよね。
このときはまだ隅田川より東は上総の国でした。だから隅田川に架かった最初の橋を両国橋(大橋とも言った)と言ったのです。
この地域が江戸市中になるのは、明暦3年の大火(1657)以後です。市街地化され本所・深川・城東地区は道路に三つ目通り、四つ目通りとあるように碁盤目状に整備されました。これには小名木川、竪川、北十間川などが、東西に通じていた関係もあるのかもしれません。